ドイツの哲学者・マルクス・ガブリエル氏。2018年10月1日NHK放送の「欲望の時代の哲学」での氏の主張がとても印象的だった。講演「宇宙×世界」。
世界について
おそらく多くの人たちはこう思っているでしょう。
「世界」とは「存在するもの全体」のことだと。
「私の手」「東京の地下鉄」数字の「7」
本当にそのような全体はあるのでしょうか?
では質問です。
私は今左手にいくつの「もの」を持っているでしょう?
「1本のペン」と答えるならば、なぜこれを1つと数えられるのでしょう?
(ここでキャップを外す)
2つかもしれない、あるいはスケールによって答えは違ってくるでしょう。
たとえば量子的な小さなスケールではペンにさえ見えないでしょう。
つまり客観的な「全体」など存在しないのです
誰にも「全て」を捉えられない
私の提唱する哲学では現実をこう見ます
現実は個別の「もの」が重なり合う網の様な場で、どんなに追及しても「全体」を見わたす神の視点など期待できません。「全体」性という考え方をやめれば全く新しい思考が生まれます。科学者たちとの対話において、「全体」とは反対の考え方を提案しています。
ペンも数字も宇宙も存在する でも「世界」と呼べる「全体」はない
民主主義について
別のパネルディスカッションで民主主義についてドイツ人らしい考えを話されていました。
質問
日本では「民主主義とは多数決である」という通念があるがこれについてどのように考えますか?
回答
倫理の土台が無ければ多数決は無意味です。人々の95%が賛成したからってユダヤ人を殺すわけにはいかないよね。
「人間の尊厳は譲れない権利だ」
これはドイツ憲法の最初の一分です。第二次世界大戦後この憲法を作ったのです。「権力をどう制限できるか」を考えました。「倫理」による法の支配を土台に置くべきとしたのです。
倫理の土台が無ければ権力は無制限に暴走します
日本における多くの会話やコミュニケーションには、見えない壁というか、ファイアウォールがあるようですね。あまりに高くて分厚い複雑なファイアウォールは、資本主義と民主主義の元では社会を損なう恐れがあります。
第二次世界大戦でナチスドイツが行ったホロコーストによって、ドイツ人には二度と過ちを犯してはならないと言う強い倫理観があります。昨今の日本社会は、この倫理観の欠如ともいえる事件が後を絶ちません。